なぞる

(どうしよう、この状況……)

夫婦の寝室、窓際に置かれたソファの上。
背中に回る逞しく太い両腕に、レハトは大きな目を瞬かせながら、困惑したそぶりで身を捩る。対するグレオニーは酒で赤くなった頬に更に血を上らせてレハトの首筋に鼻先を突っ込んだまま、彼女の抵抗も意に介さず沈黙していた。

事の発端は、レハトがグレオニーを酒に誘ったことから始まる。今日は二人の休日が重なる珍しい日で、久々に少し外出しようと計画を立てていた。午前中は城下の市を覗いたり、予想通り雨が降り出した午後からは王城に戻って広間で軽食を取りつつ話をしたりとゆったり過ごしていたのだが、ふと「それ」の存在を思い出したのだ。それとはつまり、単なる酒のことであるが、二人にとってその酒には特別な意味があった。
グレオニーとレハトは、結婚した日を二人の記念の日……例えばいつもより少し豪華な食事をしたり、記念になるような物を買ってみたりと特別な日として扱っている。個人的に特定の日を特別扱いする者など周囲におらず、不思議に思われたりもするのだが、本人達はその"二人だけの秘密"という秘めやかな共有を楽しんでいるのだった。
昨年のその日、二人は城下に繰り出してとある果実酒を購入した。すぐに飲んでももちろん美味く、一年熟成させれば全く別の風味に変化してこれまた美味い、との触れ込みに興味を引かれ買ったものだ。二本買ったうちの一本はその日に空け「来年はどんな味になってるか楽しみだね」などと言いつつ店主の言いつけ通り風通しの良く暗い場所に保管してあったのだ。一度飲んだきりの酒など一年経てば味を覚えているはずもないが、そこはそれ。こういったことは、雰囲気が大切だと二人は思っている。

さて、なぜそんな大事なものを二人して忘れていたかといえば、多忙だったからという一言に尽きる。先に衛士長に就任したグレオニーに続いてレハトも衛士頭に昇進し、それまで定期的に取れていた二人揃っての休日も少なくなった。グレオニーは慣れない事務に四苦八苦し、レハトもまた新米の教育に忙しくゆっくり会話をする機会すら減ってきている。そんな中で、偶然休みが重なったのが彼らの記念日であった……つまり、グレオニーもレハトも、本日が結婚の記念日ということすら忘れてしまっていたのだ。元々、戯れのように決めた記念日ではあるが、当の本人達は二人して失念していたことに気落ちしていた。という訳で、飲んで記念日を祝いつつヘマを誤魔化そうという流れになったのだが。

「グレオニー、大丈夫?」
「う~ん……レハト~……」

幾ら飲んでも「いい気分」程度で酔いが回らないレハトはともかく、グレオニーは酒が強い方ではない。果実酒といえど様々、やや強めのものだったということもあって、一年前同様早々に酔いが回った様子のグレオニーが甘えてくるのに構っていたレハトだったが、今日はどこか様子が違う。確かにグレオニーはスキンシップを好む質ではあるが、どことなく遠慮がなくいつもより積極的だった。

「グレオニー、ちょっと離して。ほら、いい子だから」
「レハト……いい匂いがする……」
「もう~……」

あやしても宥めても聞く耳持たぬグレオニーに、レハトはついに諦めた。片付けは明日の朝にでもグレオニーにやってもらおう、仕事もあるけど仕方ないよね、などと考えながら、その巨躯ぜんぶを使って愛情表現を示す彼の頭を撫でる。
レハトが硬い髪の毛を撫で付けるように弄くっていると、不意にグレオニーが腕を緩めレハトの瞳を覗き込んだ。酔いで潤んだからか、いつもより鮮やかな紅い瞳とかち合う。ようやく聞き入れてくれたのかと思いきや、レハトを抱え直すようにして再び腕に閉じ込めたグレオニーに、彼女はふっと諦観の息を漏らした。

「レハト、その……」
「うん?」

何やら言いたいことがあるらしい。レハトは布一枚を隔てた向こう側から伝わってくる早い鼓動に身を委ねながら、言いよどむグレオニーを促す。

「ごめん、今日……せっかくの記念日なのに、忘れてて」
「いいってば、僕もすっかり忘れてたし」
「でも……」

やはり、彼は記念日を失念していたことを気にしているようだった。残念には思ったがそこまで凹んでもいなかったレハトにしてみれば、些細なことでしゅんとなるグレオニーはじれったくもいじらしい。こんなに可愛い男が僕の夫だなんて、とレハトは口元を綻ばせる。

「そんなに気にしてるんなら、僕のお願い……聞いてくれる?」
「何でも、何でも聞くから……」
「…………グレオニー?」

からかうつもりの言葉に素直に返され、レハトに戸惑いが生じる。彼はよっぽど酔いが回っているらしいと結論付け、ならば酔い覚ましついでに少し艶っぽいことでもしてやろうと身体を押し付けた。
瑞々しいふくらみが男の胸板で柔く潰れ、細い腕が太い腰に回る。ソファから足を投げ出したグレオニーの両腿に跨るような格好で、レハトは愛しい男の耳朶にそっと口元を寄せた。

「じゃ、キスしてよ」

囁くような誘惑に、一瞬怯んだように身を硬くするグレオニー。いつもの彼ならばこのままレハトにいいように流されているところだが……。
グレオニーはなお耳を攻めるレハトの身体をやんわりと引き剥がすと、子どものような丸い頬に手のひらを添える。心底驚いた表情で固まるレハトの唇に、そっと自分のそれを重ねた。

「んっ……、ふっ……」
「……っは、」

はじめは触れ合うだけだった口付けはやがて湿度を増し、より深みへと沈んでいく。ふたつの吐息が溶け、混ざり合って、すでにどちらのものか分からない。
……常の夫婦生活であれば今この状況でリードしているのはレハトであるはずだ。グレオニーから交わしてことを始めたとしても、最終的に主導権を握るのはいつもレハトだった。体格差があるからかグレオニーがレハトに負担を掛けまいと気遣うその隙を狙って攻勢に出、グレオニーを翻弄するのが彼女の得意の戦法だ。もちろんグレオニーを虐めているわけではなく、彼の普段の態度を鑑みるに、好いた女性から意地悪に迫られるのが好きだろうとの推測からの振る舞いだった。多少いじった程度でどうこういう訳ではないが、そこに潜む悪意は確実に嗅ぎ分けるグレオニーのことだ。愛情を持った駆け引きをしたいと思っているし、レハトにはグレオニーを導く自信がある。

ところがである。今、ここで主導権を握っているのは間違いなくグレオニーだ。レハトにとっては新鮮さがありつつも、想定外の出来事だといえた。グレオニーが積極的になったことがないわけでもないが、やはりレハトを気に掛けながらおっかなびっくりということもあり、今のような──レハトをソファに押さえ付けて、口付けながら荒っぽく肌着をたくし上げるなどという攻勢は初めてだった。

「ま、待って、グレオニー」
「はぁ、レハト……レハト……」
「あ、んぅっ!」

制止の声も聞こえないのか衝動のままに貪るグレオニーに、レハトはしかし恐怖は覚えない。どことなく怯えの感情も湧くものの、それを上回る期待に胸が高鳴るようだった。

(これ、いいかも……)

なぜグレオニーが攻められるのを好むか分かったような気がして、レハトはゆっくりと脱力する。と、それに気付いたグレオニーが我に返った様子で唇を離した。酔いも醒めてきているようで、気遣わしげな表情も意外にしっかりしている。

「あ、レハト……。ごめん、大丈夫か?」
「ん……大丈夫。その、気持ち良くって」
「そ、そうか……」

グレオニーは首まで真っ赤にさせながら、それでもレハトの肌着の中を這う手は止めない。体格のわりに大きな膨らみの下の、ちょうど肋骨あたりの肉付きの良い部分を指先で撫でながら、一旦離した唇を再びレハトの頬に近付けた。

「ひゃっ!?」

唇の感触を予想していたレハトは、その温かく濡れた感触に思わず声をあげる。グレオニーはといえば、そんなレハトに構わず頬の曲線をなぞり耳朶へ、そこから少し下って顎へと夢中で舌を這わせている。

「は、ぁ……」

首筋から鎖骨から、なぞられた部分がじりじりと熱を持つようだ。あっという間に火照る身体に、レハトは熱を逃がそうと大きく息をついた。彼女が感じている様子に気分を良くしたのか、グレオニーの攻めの手にも徐々に熱が篭ってくる。

「……レハト、気持ちいいか?」
「うん……いい、よ……」

身を起こしていればちょうど胸の谷間ができる辺りを熱心に舐っていたグレオニーが、顔を上げて訊ねる。レハトが素直に答えれば、まるで少年のように笑む。そのはにかんだ笑顔のまま、グレオニーは曝け出されたレハトの腹に口付け、呟いた。

「な、レハト……そろそろ、さ」
「……ん?」
「向こう……行かないか」
「……寝台?」
「……うん」

グレオニーがあまりにも照れた様子で言うので、つられてレハトもこそばゆいような感覚を覚え、顔を伏せる。それをどう受け取ったかあからさまに気落ちした空気を醸し出すグレオニーが可笑しく、レハトは小さく笑いを漏らした。

「いいよ。……じゃあグレオニー、お願いね」
「あ、ああ……!」

一瞬で元気を取り戻したグレオニーを見て更に笑いつつ、レハトは仰向けになったまま、覆いかぶさるグレオニーに両腕を差し出した。

「目一杯、好きにしてくれていいからね」

聞くなりあたふたとうろたえ出すグレオニーを眺めながら、愛する人に愛されるのって素晴らしいなぁ、などとしみじみ思うレハトだった。

夜は既に闇深く、月も一層色鮮やか。
……ふたりの夜は、きっと長い。