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「おい、グレオニー」

昼下がり、訓練場にて。

あちこちで発せられる剣戟の音や雑談の声に紛れて聞こえた友人の呼びかけに、巨躯の男は汗を拭いながら振り向く。人の良さそうな彼の周りには、何人か年若い衛士が取り巻いていた。
振り向いた男の暗い赤髪は水気を含んで普段より色濃い。くつろげられた隊服の襟から逞しい胸元が覗いていた。

「ああ、フェルツか。どうしたんだ?そんなに慌てて」
「……グレオニー、お前、ちょっとこっちこい」

言うなり、目を丸くする周囲もそっちのけにグレオニーの襟首を掴むようにして訓練場の隅まで引き摺っていく。彼はいきなりのことにたたらを踏むも、不思議そうな表情でそれに従った。

「お、おい、なんだよいきなり。服が伸びるだろ」
「服がみっともなくなるのを心配するなら、その前にもっと気をつけることがあるだろ」
「……え?」
「後ろだ、後ろ。うなじの辺り。……レハト様か?」

しばしぽかんとしていたグレオニーだが、何かに気づいたらしくみるみるうちに頬を上気させる。緩めていた襟元を慌てて正し、首筋が隠れるようしっかりと整えた。そのまま両手で顔を覆う。

「…………いや、その、ありがとな、フェルツ……」
「……おう。気をつけろよ」

両手で顔を覆いしばらくの間そうしていたグレオニーだったが、気を取り直したように顔を上げて神妙な様子でフェルツに礼を言うと、そそくさとどこかへ走っていく。
残された友人は、新米達に指南役の衛士頭の急用をどう説明したものかと呆れたような表情をするばかりだった。




「レハト、起きてるか……?」

あまり厚くはない木の扉を何度か叩き、そっと開く。少し身を屈めて入った居室は窓の覆いが全て下ろされ、薄暗い。

グレオニーが向かった先は、レハトと一緒に充てがわれた部屋だった。
訓練場にほど近いこの場所は、狭いという訳ではなかったが、身体の大きなグレオニーにとっては勝手の悪い部分も多々あった。──それでも、上階からの眺めが好きなレハトの為を思えば苦ではない。
そんな夫婦の部屋にはシンプルな家具が並び、武具や細々とした飾りがきちんと整えられていた。飾り気のなさや剥き出しの金属の無骨さからおおよそ若い夫婦の部屋とは思えないが、夫婦どちらもが衛士というなら話は別だろう。

部屋の中心に設えられた大きな寝台は、ほとんどグレオニーのためのものだ。衛士の宿舎の寝台で長年にわたり窮屈な思いをしてきた彼にとって、この特注の寝台は新しい世界を見せてくれたと言っていいほどだった。

そして、その特大のシーツの湖で丸くなって眠る影がひとつ。

「そうだよな。……まだ、寝てるよな……」

最近、レハトは夜警にあてられることが多い。元々夜型なこともあってか本人は特に辛くはないようだが、心配なことに変わりはない。もちろん寵愛者たる彼女を二人体制の巡回に放り込む訳ではないが、勤務を共にした衛士が横恋慕など起こしやしないかとグレオニーは気が気ではないのだ。
そもそも、グレオニーはこの勤務の割り振りに対しても不満を覚えていた。

(どう見たって、俺とレハトを引き離すための嫌がらせじゃないか。結婚だってしてるのに……)

ふっと息を吐いて気持ちを切り替える。
安らかなレハトの寝顔を見れば、ささくれ立った心も自然と落ち着く。

愛しい妻を起こさないように近づき、癖のある柔らかな髪をそっと撫でる。ひたすらに滑らかで感触の良いそれに、グレオニーはすっかりいい気分になっていた。

……と、猫のような毛髪がグレオニーの太い指に絡んで少しだけ引き攣れる。

「ん……?あれ、グレオニー?」
「!!あっ、ご、ごめん……!」

身じろぎした妻に名を呼ばれたことで失態を悟った彼は反射的に謝罪を口にする。
レハトのぽやぽやした寝ぼけ眼がこちらを見、頭を撫でていた手を見、大きく欠伸をしたところで、どうやら怒ってはいないようだと察したグレオニーはその小柄な娘にそっと身を寄せた。

「どうしたの、グレオニー。まだ昼でしょ?」
「いやぁ、そうなんだけど。その、ちょっと、話が……」
「……どんな?」

暗がりも相まってどこか蠱惑的な表情に、グレオニーは思わず言葉に詰まる。何も言えないまま視線を彷徨わせた。

「……あ、もしかして、気付いた?」
「……えーっと、わざとか……?」
「だって、しょうがないじゃない。グレオニーの反応が可愛いんだもの」
「か、可愛いって……」

細い指先が頑健な印影をつくる顎をするりと撫で、怯んだ巨躯に小柄な身体が縋り付く。太い首に回された手が何かを探るように頸の辺りを這った感触に思わずあげられる男の悲鳴。それを塞ぐ柔らかく小さなものに、グレオニーの身体はますます強張る。

軽く重なっていた唇と吐息はやがて深く粘性を孕むものへと変わり、鋭敏になった聴覚が擦れるシーツの音を拾い始める。互いにぬるい呼気を口元に感じながら離れれば、細い糸がふつりと切れる音すら聞こえた気がした。

「ま、待ってくれ、レハト」
「やだ」

グレオニーが息絶え絶えに継いだ言葉はすぐさまレハトに奪われた。既にグレオニーの身体は、その細腕からは想像もつかないレハトの怪力によって寝台に引き倒されている。それにのしかかるようにして喰らいつく娘はさながら捕食者のようだ。
──そして、しばらく後。唇を塞がれ口腔を蹂躙され、隊服の前身頃をくつろげられ、下半身を柔らかい尻と腿で抑え付けられたグレオニーは、僅かな抵抗すらできずにすっかり骨抜きにされていた。

深く吸っていた舌をおもむろに離したレハトが、男性特有の厚みのある唇を舐めつつグレオニーの顔を覗き込む。

「ね、グレオニー。勤務中でしょ、あなた。……どうして戻ってきたの?」
「……ど、どうしてって、レハトが、あんなことするから……」

いたずらっぽく発せられた質問に、生真面目に答えようとした男が再び妙な声を上げる。遠慮もせずに顎先から喉仏まで舌を這わす娘には、元より答えを聞くつもりなどないのだろう。

「……これ、そんなに嫌?」

言うなり、隊服を大きくはだける。
衛士らしく逞しい、バランス良く筋肉と皮下脂肪がついた見事な大胸筋には、いくつもの鬱血痕が残されていた。よくよく見れば、鬱血痕だけではなく、歯形らしきものまで散らばっている。襟を緩めた程度では見えないが、前身頃を開いてしまえば一目瞭然の愛の証。
──レハトは、どういうわけかグレオニーに痕跡を残すことに執心しているのだった。

「い、嫌じゃ、ない……けど、目立つところは駄目だって、あれだけ……!」
「ちゃんと隊服を着てれば見えない場所だよ?グレオニー、もう衛士頭なんだから。服くらいきちんと着ないと部下に示しがつかないでしょう?」

それらしいことを並べ立ててはいるが、声色はこの上なく愉快そうであるし、その指先はグレオニーの胸板を触れるか触れないかの距離で弄んでいる。

「あっ、や、やめ……」
「ほんとにやめてほしい?」

意味をなす言葉を発する余裕すらなくなったグレオニーの上半身から布地を取り払い、鬱血痕を舌や指でなぞりながらまだ綺麗な部分の皮膚を吸い上げ、歯を立てる。はあはあと荒い息を吐きながら、グレオニーの大きな手は無意識のうちにレハトの頭を撫でていた。
レハトはくすぐったそうに笑い、くっきり筋肉の溝が刻まれた下腹部あたりを盛んに撫でる。



と、かちゃりと金具の音が聞こえ、腰の革鎧もベルトも着けたままなことに今更ながらに気付いたレハトは、少し考える素振りを見せる。そして意を決したかのようにグレオニーの耳元に口を寄せた。

「お仕事をさぼる悪い衛士さんにお仕置き。……したいところだけど、僕たちが二人共いなくなってたらまた何か言われちゃうね。ってことで」

言いながらてきぱきと身繕いを済ませ、ついで力が入らず寝そべったままのグレオニーの身なりも整え、なんとか立ち上がらせて居室の入り口まで引っ張っていき、剣と階級章を手に押し付けて。

「うん、やめたげる。じゃ、グレオニー、仕事の続き頑張ってきて。僕もしばらく寝るから」
「…………えっ」

途中で放り出されたことによほど落胆したのか見るからにしょげた様子のグレオニーに、レハトは素直だなあと思わず笑みを漏らす。
合図をして身を屈まさせると、先程と同じように耳元に顔を寄せ、今度は耳朶を軽く食んだ。ひゅっと息を呑む音。

「……続きは、夜ね。楽しみにしてるから」