お菓子

「……な、いいだろ?ちょっとだけ……」
「もう、部屋まで我慢できないの?」

私が耳を疑うような会話を聞いたのは、中庭に面した回廊を警邏していた時のことだった。
時間はちょうど昼近く、仕事もせずにふらふらしている貴族やさぼり癖のある城仕えでない限り、休憩を前に職務に追われているような時間帯だ。

思わず足を止めて耳をそばだてる。
……これは決して盗み聞きをしているわけではなく、白昼堂々と風紀を乱す不逞の輩を上に告発するのに必要な事だ。
咎める良心をなだめすかして、私は息を潜めて様子を伺った。

「久しぶりなんだし。……少しだけだってば、いいだろ?」
「だめだめ、お行儀悪いでしょ、こんな所で」

どこか覚えのある声をよくよく聞けば、なんと衛士長ご夫妻ではないだろうか?……こんなことがあって良いものだろうか。

私も衛士であるが恥を忍んで言えば、我々は男女問わず羽目を外しやすい傾向がある。元々半数以上がそれなりに裕福な家といえど平民出身であるし、腕っ節が必要な職であるからか喧嘩っ早い者も多い。さすがに王族貴族方の目の前でということはまずないが、城下の酒場で掴み合いをしたなどという醜聞を耳にすることもある。喧嘩だけではなく、やれ誰それの恋人を寝取っただのやれ娼館でいくら使っただの下らない武勇伝を披露する馬鹿も少ないとはいえない。

ただでさえ褒められたものではないのだ。これ以上、我々に周りから妙な印象を持たれる訳にはいかない。
衛士とは、王城の警備と貴人方の護衛を司るもの。自らを律し、日々精進する心なくしては務まるものではないのだ。

……衛士長ご夫妻の仲の良さは、風の噂に聞いている。もちろん、お仲がよろしいのは悪いことではないし、衛士隊の長たるお二人が不仲というのはそれはそれで問題だろう。
しかしながら噂についた尾ひれはひれ……まあ、そういった、人前では憚られるような行為を執務室やらどこぞの空き倉庫やらでしていたという話は、見過ごせるものではない。真偽が分からない以上、今まで私から進言することなど出来なかったが……ある意味良い機会かもしれない。

お二人のことは尊敬しているし、お人柄の良さは知っているがそれとこれは話が別だ。あまりに無軌道な振る舞いをされては、下の者に示しがつかない。

私は意を決して、身を隠していた庭木の影から一歩を踏み出した。

+++

通りのない回廊で立ち話をしていた僕たちは、不審な物音に身構えた。

戦など遠い昔、平穏が続く時代といえども、不穏因子がない訳ではない。僕がここに来た時にだってあれだけ大騒ぎになったのだ。次なる寵愛者が見つかった今、荒れない理由などどこにもない。……まだ生まれたばかりのその赤ん坊は、ランテとは全く縁のない貴族から見出された。特に強い権力も無く、だからといって無碍にして良い立場ではないその家を巡って、はじめは水面下で牽制し合っていた貴族達の挙動が少々目に余るようになってきたことは、僕だけでなくグレオニーも感じている。

これ以上、いがみ合いが激化してもらっては困る。そう思えば剣に添える手に自然と力が入った。が、しかし、どこぞの刺客か侵入者かと身構えた僕たちの前に現れたのは、どこか気難しい佇まいのよく見知った衛士頭だった。

「あれ?どうしたの、こんなところで」
「何かあったのか?」

すぐさま緊張を解けば、隣にいたグレオニーも身体から力を抜いたのが分かった。

出てきた瞬間の険しい表情に何かあったのかと訝しんだが、それが微妙な戸惑いを孕むものに変わったので不思議に思っていると、彼はグレオニーの抱える紙箱を指差した。

「…………お疲れ様です、衛士長殿。……その、そちらの箱は一体……?」
「ああ、これ?」

グレオニーが持っている箱を手に取って、中身が見えるように彼に差し出す。手頃な大きさの紙の包みからは、焼き菓子の匂いが漂っている。

「城下で流行ってるお菓子だよ。凄く人気だから、なかなか買えなくて。僕もよく並ぶんだけど、買えたのは二ヶ月ぶりくらいかなぁ?」
「はあ……」
「皆にも配ろうと思ってるの。全員にはちょっと無理だけど……そうだ、あなた、甘いもの好きだったよね?お一ついかが?」
「……あ、ありがたく頂戴します……」

恐縮した様子で包みを手に取る彼に、思わず笑みがこぼれる。こんな往来で食べ物をやりとりするのは気が引けるのだろう。真面目で規律に厳しい彼らしい反応だ。
ひとつふたつ言葉を交わした後、彼もちょうど詰所まで向かっていたということで、僕たちもご一緒することにした。

+++

「でね、グレオニーったら皆に配ってから部屋でゆっくり食べようって言っておいたのに、勝手につまみ食いしちゃうんだよ!」
「ご、ごめんってば……」
「お菓子の屑だってこぼしちゃうし……もう、本当に悪いって思ってるの?衛士長で僕より年上なんだから、お行儀よくしてよね」
「はい……」

甘ったるいものが口の中やら胃の腑やらに広がるのを感じながら、私はひっそりと息を吐いた。もちろん、頂いた菓子を食べている訳ではない。上司の前で歩きながら喫食するなど、レハト様ではないが、それこそそんな行儀の悪いことはできない。
お二人のやりとりが、あまりにも睦まじいということ、そして部下である私の目の前でそういったやりとりをされたことに、少々辟易しているだけである。

そう、一見すればレハト様がグレオニー様を叱っているだけのように見えるが、それは違うということがありありとわかるのだ。
何しろレハト様はそのお優しい顔立ちをいっそう柔らかくされて、子供のちょっとしたいたずらを嗜めるような口調であるし、グレオニー様に至っては耳まで真っ赤にして俯いておられる。……何とも居心地の悪い、いや違った、面映ゆい空間である。

「まったく、グレオニーったら……あ、ごめんね、変なとこ見せちゃって」
「いえ……」

私が辟易しているのを知ってか知らずかにこやかに話しかけてくるレハト様には、適当な相槌を返すほかない。

しばらく歩いて詰所に着くと、中には思った以上に多くの衛士が集まっていた。お二人を待っていたのか土産を待っていたのか知らないが、おそらく皆後者だろう。
……さて、お二人の後から付いて入った私を見て顔を強張らせた者が数名。休憩時間でない者に関しては、しっかりと覚えておいて後で叱責することとしよう。

お土産だよ、とのレハト様の言葉にわっと群がる部下達を慌てて押し留め整列させ、順番を抜かそうとする輩に拳骨を入れ、引き倒されて呻いているグレオニー様を介抱したりと慌ただしく菓子を配る。
私はその間ずっと、湖の魚に餌をやった時の情景を思い返していた。



「それじゃあ、僕たちは戻るから。朝も言ったけど今日は交代の時間が早いから、夜警の人は早めに起こしてあげてね。お疲れ様!」

柔らかいがよく通る声が号令のように響き足音が去った後、詰所内はたちまち落ち着きを取り戻した。私は手の中にある菓子の包みをもてあそびつつ、今度は大きく溜息を吐く。

結局、衛士長ご夫妻の例の噂が真実かどうかは分からずじまいだった。あの現場の勘違いに気付いた時は冷や汗ものだったが、お二人のやりとりを見るに噂はあながち嘘でもないのではないか。……何とも、先が思いやられる話である。
そして、いくら甘味好きとはいえ頂いた菓子は今日中に食べる気にはとてもならないだろうことは確実だった。

甘いものは、もうたくさんだ。……とりあえず、今日のところは。